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鹿高野球部誕生秘話

鹿沼高校野球部の歴史 
野球部誕生秘話 
鹿沼高校OB会20周年記念誌「熱球史」より抜粋

昭和33年10月
野球部創部運動

 昭和33年以前にも鹿高には軟式野球部が存在したが、部員の減少により鹿高から野球部の姿が消えしまっていた。
 しかし、昭和33年9月頃から1・2年生の間で野球部創設の声が高まり、10月に具体化した。当時の生徒会則によれば、生徒総会の承認を得る必要があるため、有志が集まり議案を提出した。
メンバーは2年生の小太刀光男、大貫由雄、吉岡成之、小林健祐、松沢、田村哲二、和久井、落合盛男、1年生の原昭、出口敞、鈴木征治、近嵐一雄、大橋一匡、早川正博、関口富士らであった。事前工作(女性のクラスの代議員に事前にアピール、野球部創立に賛同してもらう)が成功、生徒総会では満場一致で野球部設立が決定した。

職員会議での反対

しかし、これからが問題で、職員会議でなかなか承認してもらえなかった。時の校長渋佐信雄先生に直談判したが、次の理由で許可してもらえなかった。
①校庭が狭い(現在の1/3程度だった)
②指導者がいない
③進学校で運動と勉強の両立が難しい

11月末野球部創部
初代部長は女性

③の理由については原昭の「絶対大学合格いたします」の一声で校長先生も快く了解してくれたが、①②については難しい問題であった。職員会議で山内先生をはじめ、江連先生、今井先生、立入先生などの積極的協力により、最終的に②の問題はソフト部の部長が兼任してくれることとなり、11月末に野球部が正式に発足した。
4月までは部長高村先生(女性)、監督山内崇裕先生で出発。全国でも珍しい女性部長で、予算は5万円であった。

校庭北東部に糸のネット

予算内でベース、バット、ボールを購入し校庭北東部(現運動部室前、ホッケー場付近)に糸のネットを張って練習を開始した。部員20数名だったらしい。最初は練習の方法もわからず走ってばかりで、宇都宮や北鹿沼の方に毎日夢中で走ったものである。

昭和34年3月校庭拡張(校庭の白い部分が拡張された部分)

昭和30年代のグランド

翌年2月
本格的な練習開始

翌年2月頃から本格的に練習を開始した。しかし、校庭に石が多く(昔は黒川の河川敷であったためであろう)ボールの傷みも早かった。部員はボール縫いと田んぼに落ちたボール拾いに明け暮れた。校庭もなかなか拡張されず女学校時代の校庭で、講堂の屋根に右飛が当たる状態であった。

昭和34年4月
石島監督就任

昭和34年4月、山内先生が部長となり、初代監督に石島清氏(宇工出身、現役時代甲子園で大活躍した方)を迎えた。石島氏は家業のかたわら実に熱心に指導してくださった。現在の野球部の基を築いたのは石島氏の高校野球精神ではないだろうか。また、最大の問題であった指導者を引き受けてくださった山内先生の努力も忘れられない。